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みみなし地域学級の学級生で集めた地域の情報です。 それぞれの地区にそれぞれ の歴史と文化が息づいていることを知り、これまでありきたりと 感じてきたものの奥深さを、新たな気持ちで見つめ直すきっかけになりました。 取材と写真撮影 に走り回ってくださったハーさん&デコさんご夫婦に、学級生一同、 心から感謝 の言葉を贈ります! [参考文献] ○『橿原市史 本編』上巻・下巻 昭和62年3月31日 橿原市役所発行 ○『図録 橿原市の文化財』 平成7年3月29日 橿原市教育委員会発行【名 所・旧跡】 ↓↓↓興味のあるカテゴリーをクリックして下さい↓↓↓
◇昭和56年の発掘調査で、常盤町の東北部から桜井市大福にかけた一帯で発見さ れました。 ここは多武峰の北東から北西へ流れる寺川の右岸に立地する長閑な水 田地帯でしたが、 近年、中和幹線道路が開通したことからスーパーストアや割烹 等が進出して様変わりしています。 数次にわたる調査の結果、環濠と思われる大溝や土杭、井戸、墓地群などの遺構 が 確認されています。特に、類例が少ない弥生時代前期末の木棺二基が検出され 、 また、土器、石器、木製品、獣骨類などの遺物も大量に出土しました。 なかでも 土器片に人物等が描かれた絵画土器、有柄式銅剣(ゆうへいしきどうけん) を模 して作られた木製の柄頭など全国的にも類例を見ない遺物も含まれています。 遺跡の密度や遺物の量等から、田原本町の唐古・鍵遺跡に並ぶ大和を代表する 弥生時代の遺跡といわれています。弥生時代から今に続くのが常盤町です。 http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/yayoi/index2.html
◇橿原市の北部、寺川と米川が合流する付近に存在していましたが、 今日ではその 残影すら見ることはできません。しかし消滅する以前は、全長60メートル前後 の帆立貝式の前方後円墳であったと考えられています。 橿原市で最初に築かれた古墳と 言われており、調査によって特殊基台の破片が多く出土し、出現期の古墳であったことが 判明しています。また、すぐ東南には次代の古墳(大乗寺東池古墳)の存在も確認されています。 この二其の古墳をもと に少し視野を広げると、古墳が立地する場所は、耳成山から北西に延びる 微高地上にあり、耳成山の裾には5世紀後半頃の古墳があります。このことから この地には古墳時代の幕開けから、5世紀後半までに営々と築かれた古墳が 存在していたと考えられています。 http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/kohun/index2.html
◇(1) 右京北二・三条三坊域にあって、東方約400メートルには耳成山があり、 北側には隣接して 米川が西流しています。新賀町、木原町にまたがっており、新賀町旧集落の西部域に位置します。 この地から、井戸(鎌倉時代、13〜14世 紀)や方形土杭(平安時代、9世紀後半)、 木棺(平安時代、12世紀末)、大溝(鎌倉時代、13世紀)等が出土しています。 (2) 上記1の集落跡から北へ約300メートルに位置し、条坊では北京北四条、 三条、三坊域にあたり、 耳成山の北東約700メートルの北と南がそれぞれ西流 する銭川と米川に挟まれたところです。 平安時代前半(9世紀後半)から鎌倉時 代後半(14世紀前半)にかけての集落跡が確認されています。 http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/heian/ind4.htm
◇寺川右岸の自然堤防上に位置する。(城址の石碑は、旧村内にある。) 十市氏が鎌倉時代後半から江戸時代にかけて居城していた、中世大名における典 型的な平城です。 城は、十市町旧集落北部に一辺約70メートル四方の微高地 (比高差約1メートル)があり、 これを中心部分(主部)として広がっていった ものと考えられています。 その規模は、 微高地の周りに遺存する「唐堀、古市場、大門、的場、下殿口、中殿内」等の小字名や地割等から 東西550メートル、南北430メートルと推定 されています。 http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/heian/ind6.htm
◇国重要文化財 (平成元9月2日指定) 庭園(名勝)・・・奈良県重要文化財(昭和59年3月14日指定) 奈良盆地でも最大規模の民家の一つで、濠をめぐらし豪族の邸宅の構えをもって います。 主屋の上手に別棟座敷があり、長屋門、納屋、土蔵など多数の付属屋が 取り巻いています。 このように江戸時代中頃に遡る大規模な農家は、他に類例が 極めて少ないと言われています。
◇奈良県重要文化財(昭和55年3月28日指定) もと庄屋と伝えられ、北と西の方に塀があり、広い屋敷の南側に主屋があり、長 屋門、蔵、納屋棟の 付属棟や土塀で敷地周囲を囲み、屋敷の構えもよくまとまっ ています。 当家には元禄以降の古文書が伝えられ、嘉永年間の文書によれば、主屋は 元禄16年(1703年)の建設だそうです。元禄を遡る農家は県内でも数える程しかなく、 全国的にも多くないと言われています。
◇奈良県重要文化財(昭和52年5月20日指定) 主屋は奈良県に寄贈され、現在は大和郡山市矢田町の奈良県立民族博物館に移建 されています。 奈良県下における江戸時代中期の標準的な農家として、建設当初の姿に復元して広く一般に公開されています。
◇http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/manyokahi/index.html ◇ ●春日神社(常盤町字本田385番地) 入口右側に、大伴家持が天平11年8月、23歳のときに詠んだ 「玉桙の道は 遠けどはしきやし 妹をあひ見に出でてそわが来し」との万葉歌碑が建っていま す。 ●竹田神社(東竹田町字宇垣内495番地) 広庭の石に、大伴家持の叔母、大伴坂上郎女の詠んだ 「うち渡す竹田の原に鳴 く鶴の間なく時なし 我が恋ふらくは」(久我高照氏揮ごう)の歌碑が建っています。 竹田庄は、大伴氏の所有した荘園の一つと言われます。 ●耳成山公園(耳成山南麓)の一角 縵児(かづらこ)伝説に基づく万葉歌の一首 「耳無の池し恨めし 我(わが)妹子 (もこ)が来つつ潜(かづ)かば水は涸れなむ」作者未詳(石井庄司氏揮ごう) の歌碑が建っています。 ●十市御縣坐神社(とおいちあがたにいますじんじゃ)ここの境内には、 「かすみきて 天のかく山 明るより とをいちの里に 春を くるかな」 (十市遠忠百番歌合 続群書類従巻第417)の歌碑が建っています 。 これは、十市中興の英主で、武人としてだけでなく歌道においても最高峰のひと りといわれている、 兵部少輔 十市遠忠(1497 明応6〜1545 天文14)が詠んだものです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◇宗教法人 耳成山口神社:木原町字耳成山490番地、耳成山 八合目) 御祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと) 高御産巣神(たかみむすびのかみ ) 境内社:金刀比羅神社 稲荷神社葛本、木原、山之坊、石原田、常盤、新賀の6町の大氏神として祭られ、零細等の祭典では 儀式のみが執り行われ、多くの町民が参加しての行事は拡張の氏神を祭る神社で行われています。 7月23日の夏祭りには、参拝した町民が御神火をいただき、自宅の神棚に供えて 無病息災を祈願しています。 耳成山口神社の主な行事(大祭)には、夏祭りの他、 4月15日祈年祭・稲荷神 社例祭、10月13日例大祭、12月15日新嘗祭があります。 この他、毎月1 日・15日には月次祭、日々の日拝業務に加え、時期をみて山道および周辺の 清掃と草刈りを行っています。こうした行事を取り仕切っているのが耳成世話人会で、 先の6町18自治会から選ばれた世話人たちによって、耳成地区の中心をな す耳成山が守られています。 日常の維持管理については、2町ずつ1年交代で行 っています。 ○和算絵馬(算額)(耳成山口神社) 江戸時代初期から開発された和算は、西欧の数学にもひけをとらない高度なも のでした。 この進歩に重要な役割を果たしたのが、和算の扁額(算額)、すなわ ち和算絵馬でした。 和算家は自設の算題を絵馬にして神社仏閣に掲げ、それを見 たものがその答術を試み、 解答をまた絵馬にして掲げることによって算法を高めていったとのことです。 今日伝わる算額は全国で700余面を数えますが、その約1割が近畿に伝わっ ています。 奈良県では、奈良市の弘仁寺に伝わる安政5年(1858)の算額とともに、 耳成山口神社に伝わる嘉永7年(1854)の算額(縦約70センチメ ートル、横約170センチメートル) が代表的なものと言われています。 ○耳無井戸 耳成山の西山麓からの登山口(木原坂)の入口に、耳無井戸(大師井戸)があります。 平安時代、空海によって掘られたという伝承の井戸で、「大和志」には 、 「耳無井 耳無山西北清冷甘美」とあります。 橿原市観光マップ→http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/spot/map.html
◇御祭神:天照大神(葛本町449番地) 境内社:市杵島神社(いちきしまじんじゃ)稲荷神社 10月の秋祭りには、御輿4基、太鼓台4台が宵宮、本宮の昼間に5つの垣内を巡行します。
◇(常盤町385番地) 御祭神:武甕槌神(たけみかづちのかみ)姫大神(ひめのおおかみ) 境内社:稲荷神社 薬師如来像 万葉歌碑の他、江戸時代の芝村騒動で犠牲になられた方々の 功績を尊ぶための碑 が建立されています。
◇(いちきしまじんじゃ)新賀町番地不詳(国指定文化財 森村家住宅の南側) 御祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 秋祭りでは、宵宮は午後、本宮は午前中に御輿と山車の巡行があります。 本宮の午後4時からは集会所において、カラオケと祝儀引換券の抽選会が行われます 。
◇(とおいちあがたにいますじんじゃ)十市町1番地 御祭神:豊受大神(とようけのおおかみ) 境内社:玉津島神社、八幡神社、八坂神社、五社神社、金刀比羅大権現 四柱神社 秋祭りの宵宮では、くじ引きで決めた順番に従って午後4時にだんじり7台が 宮入して、 その夜は社前に留まります。本宮では午後2時30分に、順番通りに 神社を出発しただんじりが 町内を巡行しながらそれぞれの地区に戻ります。 ○五社神社本殿 創建沿革は明らかではありませんが、もと十三社と称しました。身舎は風蝕が著 しいですが、 当初の姿をよく留めているといわれています。装飾的要素の少ない 簡素な形式ですが、 肘木の形状や桁に増しがあることなど古式であり、室町時代 末期を 降らない建物と言われています。
◇(東竹田町495番地) 御祭神:天香久山命(あまのかぐやまのみこと) 道臣命(みちのおみのみこと )天火明命(あめのほあかりのみこと) 境内社:厳島神社 秋祭りでは子ども御輿が巡行し、集会所においてカラオケやビンゴ大会が行わ れます。 ○大日堂 〜当時は真言系統の寺であったといわれる〜 竹田神社境内にありますが、由緒沿革は明らかではありません。 鬼瓦に「宝永三 丙戌暦(1706)8月日」の刻銘があり、同一時期の鬼瓦がまとまって残って います。 本尊の大日如来像はその像内に墨書があって、弘治元年(1555)に南都宿 院仏師源次らの作と言われます。 この像は昭和54年9月2日に盗難に遭いまし たが、その後無事帰ってきました。
◇(さかとじんじゃ)(中町272番地) 御祭神:武甕槌神(たけみかづちのかみ) 秋祭りには、土曜日の午後と日曜日の午前中に子ども太鼓台の巡行が行われま す。
◇(新口町489番地) 御祭神:素盞嗚尊(すさのおのみこと) 息長帯姫命(おきながたらしひめのみ こと) 武甕槌命(たけみかづちのみこと)表筒男命(うわつつおのみこと)ほか4柱 境内社:6社 秋祭りには、宵宮の夜6時からと本宮の午後1時から太鼓台が巡行します。 宵宮には境内に舞台を設けて、午後7時30分頃から壮年会有志による 「冥土の飛 脚新ノ口村の段」(梅川忠兵衛)2幕が約1時間30分にわたって上演されます 。 8月には、境内において盆踊り大会(主に河内音頭)が行われます。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◇ ○浄教寺(葛本町414番地)〜真宗興正派〜 本尊阿弥陀如来立像の左脇壇に、本叡上人画像と 厨子入りの義民位牌が祀られて います。この位牌は百姓一揆によって犠牲になった農民を 供養するものです。江戸時代、十市郡葛本村を中心に常盤、新賀、膳夫など 九村で宝暦3年(1753)に百姓一揆が起こり、世に十市騒動とか芝村騒動と 呼ばれるようになりました。当時、この地域は芝村藩の預かり所となっていましたが、 農作物 などの過酷な取り立てにたまりかねた農民たちが、常盤村庄屋彦市、 葛本村庄屋 藤本小左衛門らを中心に200名ほどが京都奉行所に窮状を直訴するに及びまし た。 この騒動で年貢は減ったものの、幕府は徒党を組み強訴したと関係者200 人を江戸に呼び出し、 取り調べました。結局、牢死者38人、死罪1人、遠島4 人、追放32人を出すという 悲しい顛末となったのです。詳しいことは、後に藤本氏末裔によって「位牌由来記」に まとめられ位牌が奉納されました。毎年5月 8日には関係者により法要が営まれています。
◇(中町279番地)〜浄土真宗本願寺派〜 多武峰の輪蔵を移築増改築したものと言われており、17世紀後半頃、多武峰寛文大造営のころから 元禄年間位の間に作られたと考えられています。本尊は、阿 弥陀如来立像で藤原時代の作と言われています。 侍立する薬師如来像は像高52 . 25センチメートル、檜材寄木造りの典型的な藤原仏で、 像内一面に金箔が押さ れる他に例を見ない珍しい尊像です。
◇(東竹田町464番地)〜融通念仏宗〜 本堂は、棟札写によると安永2年(1773)に河内国石川郡一須賀村大念仏 寺末寺の 西念寺に建立されていたものを、明治35年に移築したものです。寺の沿革は明らかではありませんが、 延宝5年(1677)の本山末寺帳に登載されている古くからの寺です。 木造地蔵菩薩像は像高51センチメー トルの比較的小像ながら、平安末期のすぐれた作と言われています。
◇正覚寺(十市町1007−1)の仏像 ○木造天部形立像:奈良県重要文化財 昭和63年3月22日指定 檜材一木造り 像高164.5センチメートル 平安初期の 作 ○木造地蔵菩薩立像:奈良県重要文化財 昭和63年3月22日指定 檜材一木作り 像高90センチメートル 平安初期の作 橿原市内で最古のものと考えられる仏像です。
◇ ○善福寺(新口町454番地)〜真宗興正派〜 本堂前方に梅川忠兵衛の自然石の供養塔が立っています。この碑は、以前は少し離れた忠兵衛屋敷跡と 伝えられる土地の一隅にあったものを、明治16年、寺の境内に移したものです。 新ノ口村の人たちが結縁で造立した六字名号碑ですが 、 碑自体は少し古いものです。 ○安楽寺(葛本町259番地)〜浄土宗〜 大棟鬼瓦銘の正徳2年(1712)の建立と考えられており、この時期の浄土宗 本堂としての 定型的な平面とともに、内陣仏壇の形式などの古式も有しています 。 なお、降り棟に 延享3年(1746)の鬼瓦銘があり、表門もこの時期の再建と 考えられています。 法然上人源空の弟子久野作仏房が、建久3年(1192)7月、熊野巡拝の帰路 、 葛本の不経堂の地に一宇の庵室を構え念仏の道場としました。 これを正徳3年 (1713)10月、現在地に移転し安楽寺と称しました。 本堂前方の水子地蔵の向かって右隣に、「梅かわ忠兵衛」の碑があります。 江戸時代の阿弥陀石仏碑で「休安禅忠兵衛、香薫禅定尼梅かわ」と刻まれています 。 ※二体の仏像は、現在、奈良県立博物館に寄託されています。 ○平成18年に新ノ口駅前にも、新口町壮年会結成20周年を記念して、梅川忠 兵衛の碑が建立されました。
◇毎年6月に上品寺町で行われる、県内で一番有名な「ノガミ(農神)祭り」。 5 メートルほどの麦わらで作ったジャ(蛇)を町の子どもたちが担いで町内を練り歩き、 最後に町外れの大木(農神の木)に巻きつけ、御神酒などを供えて1年の 豊作を祈ります。 むかし村人にいたずらを働き退治された大蛇の霊を供養する祭りだともいわれ、 毎年町を挙げて行われています。 問い合わせ:橿原市観光課 tel.22−4001 http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/saijiki/syaka.html |
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